2017年9月5日火曜日

『ほんでも』――Something Positive Should Be Going to Happen

 待てば海路の日和あり。
 もう少し若かった頃の母がこのことわざをよく口にしていたという印象がある。何かに行き詰まったり、つらい状況に陥っている時に、それでも希望を捨てずに前向きになろうとする心。この成句を使う人には、その心を支えようとする意図がある。
 辞書などでは、類似することわざとして、「果報は寝て待て」を挙げていることがほとんどだが、後者には、より楽観的な、具体的に何らかの利益をもたらすような展開を期待する印象がある。前者は「待てば甘露の日和あり」に由来するとも言われているが、海路にしろ甘露にしろ、良いことを待っている姿勢に忍耐が結びつきそうだ。これに対し、後者は、良いことを寝て待つのであるから、どちらかといえば楽観的に待っている印象がある。前提になっている状況として、前者は否定的なもの、後者は肯定的なものが連想される。あくまでも個人的な印象であるが。また、どちらの成句にも、焦らずに吉報を待つことをよしとする意味があるが、「何かに取り組み、できる限りの努力をしたならば」という前提が暗黙のうちに読み取られるのではないか。
 私の語彙には、現状に耐え、風向きが変わるのを待つ時の心情を表現するための、「ほんでも」という表現がある。この時に想定される現状は悲壮感の漂うものである。「ほんでも」という言葉自体が持つ意味は、「それでも」だが、私の語彙にあるのは、母親がよく使う言葉としての「ほんでも」である。「待てば海路の日和あり」もよく耳にしたが、これを口にする時の母は、あっけらかんとした明るい様子であるのに対し、「ほんでも」が出てくるのは、ほとんど絶望的になりながらも、あまり執着しすぎず、なおかつ、忘れることもなく、心の片隅に具体的な何かを期待しつつ日々を過ごす人の、けなげとも言える心情を推し量る時である。
 私の語彙の「ほんでも」に特別な意味を与えている理由のほとんどは、母親自らが娘らに語って聞かせたその生い立ちにある。母はそれなりに裕福な家庭に生まれはしたものの、母の母親は5人の子供の末の子を産んですぐに病死し、父親は再婚後に戦争の傷がもとで命を落とした。その後、父親の再婚相手が元々子供嫌いなこともあって、一定の生活を保障する条件のもとに打診された子供の養育を拒否したため、その子供たちは、子供のいない夫婦に引き取られたり、親戚に預けられたりした。比較的に幸せに育ったきょうだいもいれば、悲惨な幼少期を生き抜いたきょうだいもいる。
 私の母を待っていた境遇は、後者だった。母は、その記憶によれば、財産目的に養育を承諾したと思われる親戚に預けられ、散々嫌がらせを受ける日々を送った後、本人の言葉によると「口べらし」として養女に出されたが、その養女とは、学校にも行くことを許されず、土方のような仕事に出されたり、家の中の雑用をすることだけが許されるような、本人曰く「下女」、「べいや」のようなものだった。ただ、子守だけは嫌いではなかったと言っている。子供の私の目から見て、母は、一般的な大人よりも子供の気持ちを思いやる姿勢は強かった印象がある。幼い頃の自分が重なるということもあるのだと思う。
 母は、父親が病床にある時に呼ばれ、一度だけ弟の手を引いて裸足で会いに行ったという。栄養失調で異常な体型になっている娘を見て、父親は目を見開いて驚いたとか。しかし、お腹が出ていたため、その場を取り繕おうとした親戚の女性が「まあ、よく食べて、ふっくらとしたなぁ。」と言ったとか。しかし、母曰く、「父親の目は全てを悟っていた。さぞかし辛かったろう」。
 その後、初潮を迎えた時に、引き取った家が全く何も教えず、用意してくれなかったことに見切りをつけ、ひとりで家を出た。その時に養父母がくれたものはタオル一本だったという。本人も薄々気づいているが、母は今でもタオルをなかなか捨てられない。数年前の夏のことだが、車の助手席に母を乗せた際、バッグから擦り切れて穴が開くかどうかまでスカスカになったタオルを取り出し、「いくらなんでもこのタオルはひどいわぁ。」と自分でも驚いた後、頭から被って顔の前に垂らし、「貴婦人」と言って、あっはっは~っ!と笑っていた。Face Net のことだ。

 話を戻すと、上記は小さな片鱗だが、私はそのような母の回想を聞いて育った。母が自らの心情だけでなく、絶望的とも思える状況の中で何か具体的な明るい展望を待ちながら日々を過ごしている人の心情を、「ほんでも」と表現する時、私がその言葉に一言では言い表せない思いを感じることはお察しいただけると思う。
 ここで具体例を挙げるのが一番だが、なぜだかすぐに思い浮かばない。具体例を挙げるのが難しい。この「ほんでも」は、漠然とした展望ではなく、具体的な一縷の望みを控えめながらに待ちながら現状をやり過ごすような時の心情を表現するのだが、具体例を挙げるにはもっと具体的な細かな記憶を私自身がたどらないといけないのだ。具体例の代わりに説明をつけ加えると、この言葉は、人から見ればほとんど望みのないことであっても、心の拠り所をそこにしか見出せないゆえに、人からは理解されなくとも考え方と行動を変えずに日々耐え忍ぶ時の「それでもいつか」という気持ちを表現するものである。
 さて、最後に書きたい。上に、悲壮感の漂う回想について主に書いたが、タオル一つを持たされて家を出た母には希望があったという。身寄りがないという理由で嫌な目にもたくさんあったらしいが、苦労はあったとは言え、自分ひとりの意思で自分の生き方を決められる幸せがあったのだ。家を出て、仕事をいくつか変え、たばこのお店で店番をしていた時に父と出会った。父は昔ながらの地主の家系に育ち、身寄りのない母との結婚を反対され、ふたりは駆け落ち同然で結婚した。その後、家族が増え、それはそれで様々な苦労はあったと思うが、母曰く、若い頃は貧しかったが夢があったと。そして、父親と結婚した運命に今でも感謝している。先日姉が言っていた。母親の年齢で、生まれ変わっても同じ人と結婚したいと思える人は珍しいと。
 いくつもの「ほんでも」を乗り切った人生に幸運な出会いがあったのだ。

 
 
 

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