2018年5月7日月曜日

無言の微笑み----Silent Smile

 もうかなり時間が経ってしまった。「ほんでも」を投稿してほどなく、父が亡くなった。1年ほど膵臓癌の闘病生活を送った末だ。夏に、もうあまりよくないという母の言葉を家族から伝え聞き、私は子供と一緒に一時帰国をした。「とりあえずは1年間」という予定で海外にいたので、父の闘病がよい方向に向かうことを願い、祈るような気持ちで一時帰国はしないつもりだったが、Skypeを覗き込んで無言で微笑んでいた父親の顔が瞼から離れず、すぐにその時が来るのだろうと感じた。照れ屋の父が何も言わないまま、こちらにずっと顔を向けて微笑んでいたことに違和感を覚えたのだ。笑顔は私のためでもあるが、自分の気持ちを支えるためでもあったのだろう。何かを言おうとしていたのか、逆に言うまいとしていたのか。
 父と時間を過ごす機会が未来永劫失われないよう、夫の勧めもあってすぐに帰国した。私は娘として、限られた時間をどのように有効に使うことができるのか。これまで長い間、父と娘として過ごした日々をほんのわずかの時間で悔いのないように送り出すのは無理である。けれど、そうしなければならない。とても単純なようだが、私は思い出のすり合わせをしようと思った。日本に帰るのも病院に向かうのもこわかった。しかし、人間というのは、どんなに絶望的な状況でも、大切にすべき瞬間が目の前にあれば、絶望を一時保留し、目の前の大切な瞬間のために心を明るくすることができるものだ。私は強く記憶に残っている父との思い出を語り、父は思い出というよりは、娘として私に感じていたことや、自分が親としてどのような姿勢でいるべきだと思ったかということを語った。父は、年齢と薬の影響で、考えたり思い出したりも少しきつくなっていたと思うが、話題に集中し、可能な限り話してくれたと思う。
 夫と2人の息子は見守ってくれていたが、私は前もって息子の1人に歌を歌ってくれと頼んでおいた。私が幼い頃、父親がたまに口ずさんでいた戦時歌謡のようなものだ。年代を考えれば、父親自身、聞いていたのは子供の頃だろう。父親は聴き終わって、私たちが英語圏に滞在していることを意識してか、子供の頃に学校で教わった英語の歌を照れながら口ずさんでくれた。当時の様子を話しながら。もう1人の息子が合唱で滞在国の国家などを歌った写真を送ったことがあるので、本当はそれも歌ったらよかったのかしら、と後で思ったが、この子にはこの子で、恥ずかしがり屋のキャラを抑え、メッセージを送ってくれただけでも、よくやってくれたのだ。夫は2人の時間を持つことも勧めてくれていたが、それはかなわなかった。また、これは私の勝手な考えかもしれないが、私が自分の家族と一緒にいることをしっかりと確認することで父に安心してほしかった。海外行きで、私と子供は夫と生活が別になっていたからだ。私は三人姉妹の末っ子だが、2人の姉はどちらも離婚しており、私の両親は長姉の2人の子供を親代わりに育てた。父親はその2人の孫が外で肩身の狭い思いをしないよう、細かいことに気を遣っていた。口数は少ないが、心のアンテナで何でもキャッチし、何でも知っている人だった。父親は、私の結婚に関しては、夫に信頼を寄せていたものの、それを確認するように、私が折に触れて家族と一緒に訪ねて行った時には、心の底でしみじみと喜んでいるのが伝わってくることがあった。
 父のことを書きたいと思っているが、気の利いたまとめ方などできない。この先しばらくだらだらと書いてしまうだろう。父は家族みんなに愛されていたし、家族でなくとも、その人柄を知る人からは愛されていたと思う。ただ、闘病中は家族の愛情が空回りし、いろんな思いが交錯して、父を取り巻く状況は複雑だった。とはいえ、最期は、不器用ながらも父親を暖かく見送りたいと願う家族の愛に包まれて旅立った。これを事実として記憶したい。

 

 
 
 
 
 

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